あざらしとペンギンの問題

主に漫画、数値計算、幾何計算、TCS、一鰭旅、水族館、鰭脚類のことを書きます。

愚者のシンフォニエッタ

萩生響さん、お誕生日おめでとうございます!以下の写真は私が山形県飯豊町にある萩生駅に行って撮ったものです。私ははなこ推しなのですが、その名前の駅はないので、18きっぷで鰭を伸ばして行ってきました。

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さて、新年度といえばいろいろなことが終わる時期です。日本では4月1日から新年度ですが、他国では9月1日からが多いです。ちょうどその日は私の誕生日です。ちなみに、ARIAアリス・キャロルの誕生日でもあります。そういうこともあって、私は彼女に特別の親近感を覚えています。さて、余計な話はこの辺にして、本題に入ります。

私は会社を辞めました。今後、法廷で争う可能性があるので、詳しいことは言えないことをお察しください。

第一楽章 大義なき試練

私の経歴については、私の twitter を見ている人は知っているかもしれませんが、かなりの紆余曲折を経てここまで来ました。世間的に見れば私は俗に言うところの高学歴に当てはまると思います。一応それなりの高校を出てそれなりの大学に入って、最終的には大学院博士課程に進みました。ここだけ見れば順調にエリートコースを歩んできたように思われるかもしれませんが、その過程は単純ではありませんでした。

私の最終学歴は大学院博士課程自主理由中退です。つまりは博士号を持っていないわけです。私は正直に言えば学歴コンプレックスを持っています。博士、Dr.、Ph.D. はもとより D という文字にさえ反応するほどです。そもそも大学では博士のことを当たり前のように D と呼んでいた(博士課程に進むことを D 進、博士論文のことを D 論など、むしろ博士という言葉を使うことの方が少なかったです。)ので、D に反応してしまうのも仕方のないことかもしれません。

化学を諦めて

私の味わった挫折というのは、博士課程を中退しただけではありませんでした。以下、特定を避けるため幾分ぼかして書くことをお許しください。

私が遠い昔に入学した大学は、入学の時点では専攻する分野が決まっておらず、進級の際に希望を出して分野別のカリキュラムに移行するというシステムでした。入学当初、私は化学あるいは物理学を専攻し、大学院も物質系に進むことを疑いもしませんでした。というのも、私は子供の頃から(似非)化学実験が好きで、周期表は小学校の時点ですべて記憶していました。神経ガスの分子構造はもとより合成方法なども知っていたと思われます。中学校に入ってからは理科室での実験が多くなり、ドブのような日常の中で最も楽しい時間でした。その頃には知識も増え、高校で扱われる範囲、さらにはネルンストの式など大学レベルの化学まで知っていました。私は授業を真面目に聴くような優等生ではありませんでしたが、理科、特に化学分野の成績はとても良かったです。それゆえ高校では化学で勉強することがすぐに無くなってしまい、自宅で夜な夜な怪しい実験をしたり、教科と関係のない数学にのめりこんだり、プログラミングをしたり、深夜アニメを観たりして過ごしました。「帰宅演習」に入れた次のコマは実話です。普通の模試程度では偏差値 80 以上は当たり前という感じでした。

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ここでひとつ自慢しますが、次の周期表 T シャツは私がカリフォルニア大学バークレー校を訪れた際に買ったものです。大学公式グッズです。この大学といえば数多くの元素を作り出したことで知られ、_{97}\mathrm{Bk}, _{98}\mathrm{Cf} の名前の由来にもなっています。化学好きとしてはこれ以上ないグッズと言えるでしょう。ちなみに、放射能のマークには蓄光材が入っていて、暗闇で光ります。芸が細かい!

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閑話休題。そんなことから、私が特に何も言わなくとも、家族や学校の先生も私が化学の路に進んで研究者を目指すことについて誰も疑っていなかったと思います。しかし、現実は私に厳しい試練を与えました。

私は高校を卒業するあたりから「パニック障害」なるものを発症しました。敢えて「なるもの」と言っているのは、当時の私には思いもよらないことだったからです。具体的にどういうことが起こるかというと、毎日数回、突然の激しい苦しみに襲われます。まるで自分の周りから酸素がなくなったかのような、あるいはいきなり暴漢に襲われ首を締められたような、とにかく日常的にあり得ない苦しみに襲われ続けました。私は当初一時的なもので大学に慣れれば収まるものだと楽観していましたが、むしろ酷くなるばかりでした。特に、朝の通勤電車などはあまりの苦しさに死んだ方がマシと考えるほどでした。結局、5月には大学に出なくなりました。その後は家に引きこもる生活が続きました。家でも発作は繰り返し起こり、飯も喉を通らず、発作の恐怖ために寝付くこともできず、また夢の中でさえ苦しめらました。私は実家暮らしだったので家ではなんとか生きていました。もし一鰭暮らしだったとしたら今は生きていないと思います。心の中では「私が一体何の悪事を働いたというのか?なぜ私が苦しめられなければならないのか?」というのを繰り返していましたが、地獄のような苦しみとそれに対する恐怖に苛まれ、急速にうつ状態が進行して、もはや神に反逆する意思などもない、ただの生きる屍のような状態にまで崩れました。

惜しむべきは、当時私自身を含めた誰も私の病気に対する対処法を知らなかったことです。これは日本人の価値観の問題なのかもしれませんが、私は自分が精神を病んでいることを認めたくありませんでした。それ認めてしまうことは私の弱さを認めることに等しく、それを公言することで弱者と見なされることを恐れていました。そして、周りの人は当然ながら私を健常者として扱うために、様々な場面で私は不自然な行動を取らざることがありました。私には少なくとも私の症状が理解され得ないものだという認識がありました。実際、パニック障害の苦しみをそれを味わったことのない人に理解してもらうことは不可能でしょう。先に書いたように、いきなり暴漢に首をつかまれる体験をしてもらうことくらいしか思いつきません。

結局私は1年以上大学にはほとんど行かず、家に引きこもっていました。あるいは、家族がいる日は外に出て図書館や公園などで時間を潰したりしていました。一度発作が起これば嘔吐したり失神したりすることも十分あり得たので、閉鎖空間を非常に嫌いました。今も当時の癖で初めて入った建物ではトイレの場所と避難経路を確かめ、最も避難しやすい位置(新幹線のトイレ寄り通路側など)に陣取るということをします。当然のことながら、当時は通勤電車、自動車といった避難場所もトイレもない乗り物に乗るのは命がけの気分でした。

化学を専攻した経験のある人には分かってもらえると思いますが、化学は必修科目ばかりで特に実験は休むことも許されませんでした。化学に限らずとも大学の実験は色んな意味で重い科目です。まず実験計画を書くところから始まり、実験室で実験を行った後は用具の洗浄、片付けをして、そのときの実験の進め方や結果について担当の TA*1 とのディスカッションを行い、最後に掃除をして実験室を出ます。終わる頃には 21 時なんてこともありました。そして実験の後にはレポートが待っています。それで×を食らえば書き直しなんてこともあります。

当時の私がそれに耐えられるはずもありませんでした。パニック症状のために危険な薬品を扱うことがそもそも危険ということもありました。結局私は必修の実験を完遂できず、化学を諦めざるを得ませんでした。

これが最初の挫折です。当時、化学を諦めるということは、鰭生を諦めるも同じでした。

計算の世界へ

化学を諦めた私が次に目指したのは、実験ではなく計算によって物質の性質を明らかにする研究でした。基礎数学についてはほとんど独学で線型代数微積から位相空間多様体群論などをやりました。物理、化学の基礎理論も一通りは勉強しました。そして地面に落ちていた単位を回収し、次に進むべきところはといったところで、意外にも先のようなことをやれるところが自然科学系にはあまりないことが分かりました。そしてもちろん大学の数学専攻は純粋数学をやるのでなおさらです。一応この頃にはパニック発作の頻度はかなり少なくなっていました。とはいえ全く出なかったわけではなかったのですが、私はなんとか回避する方法を考え出して乗り切りました。

そのときに講義に出て知ったのが計算科学、いわゆるコンピュータ・サイエンスでした。そして、計算で微分方程式を解いたりそのためのアルゴリズムを作ったりすることをメインでやっているのは、むしろ情報系の専攻であることを知りました。

そして私は情報系の専攻に進路を変えました。この辺の事情は面倒くさいのですが、結果としては一年遅れで情報系に移りました。ゆえに、同級生はおらず、ほとんどゼロからのスタートでした。正直なところ、私は情報系について何をやっているのか分からない怪しい世界だという印象を持っていました。実際に入ってみると、かなりがっつり数学をやるところだとわかりました。それこそ純粋数学と変わらないことをやっている研究室もありました。ただ、組合せ数学というのは数学系ではあまりやらない数学でした。私は次の Polya & Tarjan の「組合せ論入門」という本を読んで、こういう数学もあるのかと知ることができました。この本は大学の知識が特に必要ではないので、高校生でも十分読めると思います。

組合せ論入門

そして私が選んだのが「計算複雑性理論」、英語では Computational Complexity Theory という分野でした。このブログの最初の記事にある「通信複雑性 (Communication Complexity)」は私が学部の卒業研究でやったことの触りの部分です。私が研究していたところは、量子通信複雑性に及ぶため、下界を示すにはもっと進んだテクニックが必要になりますが、理論的にはかなり奇麗になっています。

大学院に進んでから、さすがに私もこのまま 12 時間も飛行機に乗ったりしたら死ぬと思い、大学の保健室的なところに診察を受け、薬を貰っていました。そのおかげでパニック発作はほとんど抑えられました。

とまぁ、そんなこんなで、私は大学院博士課程まで進み、研究の方向性の違いを理由にして辞めました。どこのバンドだよ。このあたりの事情は相当こじらせているので口を慎むことにします。

第二楽章 泥舟の進水式

就職、そして

大学を自分勝手に飛び出していった私に行き場などありませんでした。この辺も闇が深いので割愛します。そして、就職しました。そのことは前の記事にあるのでここも割愛します。

この頃に私は診療内科にかかり、双極性障害(いわゆる躁鬱病)と診断されました。

就職に関して問題があったのは、当時の勤務先ではなくて、私が実際に雇用されていた会社と、なんかよくわからない仲介業者です。その会社というのは、一言で言えばブラック企業、それも法的にブラックな企業でした。この辺りの事情は訴訟案件になる可能性があるのでまたしても割愛します。

ともかく、私は三次元幾何計算のプログラマとして勤務していましたが、昨年9月頃から体調を崩すことが多くなり、欠勤も増え、遂に 11 月には全く動けなくなるほど酷くなっていました。サンクリの原稿を落としたのはまさにこの辺りですね。正直を言えば C91 の「NEW GAME!」合同誌の原稿も落とすところでした。

出勤していた会社の方はこれは危ないと思い始めたのか、私に休養を取ることを勧めるなどいろいろ考えてくれました。しかし、私の担当した部分はもはや私以外誰も扱えない代物になってしまっていたので、なんとか完成を目指して頑張りました。しかし、体調の不安定はその後も続き、これはまずいということで、本格的に病院で診察を受けることになりました。

発達障害

数度にわたる鑑定の結果、私は発達障害のうちの自閉スペクトラム障害 (ASD) 、いわゆるアスペルガー症候群の可能性が高いことが判明しました。自分が昔から変わった子供だったということは親や周りの人から聞かされていて、自閉症の兄弟がいることから、随分と前から疑いを持たれていたようです。

先程の双極性障害もそうですが、検査を受けるときは家族および近い親族に同様の障害を持つ人がいるかどうかを訊かれます。これはがんの診察を受けるときと同じです。精神障害などというと環境にのみに原因があると思っている人は少なくないと思われます。しかし、これらの障害には遺伝子が深く関わっていることが知られているのです。つまり、私は生まれた段階でその因子を持っていたのであり、たまたまこの時期に明らかになったということです。

実際に見ていただくために、そのときに受けた WAIS-Ⅲ という IQ テストの結果を次に示します。

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テストの詳細は伏せますが、構えないでやっていいと言われたので、かなりマイペースでやったところ、大幅に時間オーバーしてしまいました。これも診断には考慮されているようです。

ここで、VIQ とは言語性 IQ、PIQ とは動作性 IQ、FIQ とは検査全体の IQ ということです。大雑把に言えば VIQ が高い人は勉強や話術が得意、PIQ が高い人はパズルやスポーツが得意といったところでしょうか。しかし、普通の人であれば、両者の差はほとんどなく、FIQ も大体近い値になります。

ところが、上のグラフを見ると、明らかにガタガタです。VIQ と PIQ の差が 50 近くもあります。下位項目についても同様にガタガタです。この段階で発達障害の疑いが極めて強いことが分かります。

しかしこれはまだ序の口で、私の障害はもっと複雑だったのです。上の図から FIQ が高いことが分かりましたが、私の言語運用力というと、お察しの通り極めて稚拙で表現力に乏しいと言わざるを得ません。私が受けた検査は何も WAIS-Ⅲ だけではありません。他の検査項目を総合すると、どうにも私は IQ の示す性質と真逆の性質を併せ持っているらしいのです。そのため、IQ の解釈は慎重を要するとのことでした。要するに上の数字はあまり当てにできず、一般的な検査では私の障害を捉えきれないということです。

この結果には医者や臨床心理士にも困惑が見受けられるほどで、なんだかわからないが普通とはかけ離れているということだけが判ったのです。えーーーーーーーーー(日常)

第三楽章 厳冬

仕事の話に戻りますが、私はとにかく 11 月以降絶不調でした。一日中天井を見ているだけで、勤務先に連絡することさえできないほどでした。そのため、私を実際に雇用している会社の社員となんかよくわからない人を交えて面談が行われました。その結果として、社員からモーニングコールというには激しすぎる電話攻撃を受け、ついには家に押しかけて来る始末となりました。この頃から私はストレスのため毎日のように嘔吐するようになり、押しかけて来た社員の顔を見た瞬間吐き気を催すほどでした。日常はあっという間に恐怖の渦となりました。

私はなんとか年内にモノを仕上げて多少の修正すべき点を残すのみとなりました。しかし、本当の地獄はここからでした。言ってしまえばチームの誰も私の作ったもの、およびそれ以上に重要な解析技術が理解できなかったのです。それもそのはずで、私の作ったものは業界に存在し得なかったものだったからです。そのため引き継ぎは困難となり、結局私が参ってしまいました。その後はやはり社員からの厳しい圧力に苛まれ、日に日に無残な状態になっていきました。この頃には出される薬に三環系抗鬱剤が加わり、いよいよ極まってきたという感じでした。

そして、私は追求から逃れるように旅に出ました。私は当然電話など無視していました。その間に実家にまで連絡が行き、親が会社のやり方の不当性に激怒して、私は退社を決意するに至りました。労働基準監督署に相談を行った結果、ほとんど全部黒だと判りました。

私は私を追い詰めた彼らと二度と会わないと誓いました。実際それはとても危険なことでした。なぜなら、私は彼らを殺してしまいかねなかったからです。

Postlude 春へ

その後は適当に引き伸ばしたりしながらタイミングを見計らって、会社に No を突きつけました。もちろん、法的措置を取ることをほのめかして。それ以降彼らと会ったことはありません。

終わりはあっけなく、それ以降私は吐き気に悩まされることもなくなりました。

4月、私は私が生まれてからしばらくいた田舎へと帰ります。

では。

*1:ティーチングアシスタント